体内被爆者の会入会して!

 先日NHKの記者から連絡があり、体内被爆者の会の一員である私に取材を申し込まれ、26日広島市内で体内被爆者の会シンポジウム準備会で早目に帰宅していたので、改めて取材を求められた次第。当日は18時から呉(協)銀座の臨時理事会があり、広島から17時にはクレアラインに乗らないと間に合わないから会の途中で申し訳なかったのだけど、急遽早退してしまいました。又突然の取材に私も気分的に少し動揺もあり、月末の整理やらで、なにかしら疲れを感じ午後から急に眠気がして、ついうとうとしながら仕事をしていました。私の誕生は1945年9月で、8月6日、爆心地から1.5kmの広島市内横川駅で母、4歳,2歳の姉達と母の胎内に私が居て、爆風に因る広電の待合所倒壊の下敷きになり、周囲の人達に助けられて、70年経った今日元気に生き永らえてきました。幼児の時は何時も青白い顔で夏に海水浴に行っても日焼けしないひ弱で母親にべったりのおませな子供だったと聞いています。成人して鉄欠乏性貧血、最近では以上なほどの骨密度が悪い骨粗少症で薬の治療だけは欠かさず続けていますが、至って元気に今でも仕事に支障はありません。そんな自分が、生かされた、と言うか遺された人生最後に私に出来る範囲内のボランティア活動に投じてみようと、体内被爆者の会に入会しましたが、あの忌まわし8月6日の出来事で人生180度変わっている方達の体験談を聞いているうちに、中には劇場型、悲劇のヒロインになられた方達の70年の歴史には、改めて、戦争の無惨な結末を無責任に放置出来ないと痛切に感じました。日本全土爆撃に因る何百万人と言う死傷者、海外に出兵されて、遺骨のないままの遺族の方達、戦場での怪我や大病を患って、やっとの思いで帰国出来た兵士の方達。当時の政府のかじ取り判断に因る戦争悲劇。大国相手に資源のない小国日本の結末は想定されていただろうに、国内平和を誇示し、神の国だと自負してきた、無謀な時代、日本古来の実直な武士道精神が時の流れに流された気がします。今年の8月5日16時半から胎内被爆者の会シンポジウムのパネラーに推薦されたのに、辞退したら、今度は司会を依頼されて、又緊張が続きそうです。