古希を迎える私の8月6日

8月6日被爆70周年にあたり、胎内被爆者の私にとって誕生の事は
もう過去の出来事の様に封印していた思いを、入会した事に寄り文章に綴り、胎内被爆者の方達18人の思いも一緒に小冊子を作りました。その所為か、いつもと違う重たい過去と向き合うことになり、当時の母親の心境を、原爆投下時の2人の幼子を抱えて、胎内には8か月の身重な身体で、建物の下敷きになり、必死に叫んで、掘り起こして貰い、泣き叫んでいただろう長女の片脚からの多量の出血にも気が付かず、火の回る方向を避け乍ら疎開先の可部の町まで逃げ帰った。。恐怖感と極度の不安、市内に残って居た家族の安否すらつかめず、子供の大きな足の傷が破傷風に罹らないように、まともな薬すらなくマーキュロクロームだけでの治療、胎内の子の無事であることを気にしながら、広島市内に捜索に出られなかった胸中、広島市役所への通勤時間に近距離で被爆した父親はまだ生きていたが誰か知人のトラックに乗せてもらって、其の侭行方が分からず、間もなく息絶えたのであろうと推測の域だった。9月17日枕崎台風で数万人が犠牲になり、その翌日、台風一過で晴れ渡った青空の昼前に予定より1か月早く私の誕生。母のこの出産時の心境はどうだっただろうか?無事出産出来た喜び以上に将来の不安と悲しみが一杯だったろうに、母の話をもっと聞いてあげれば良かったと、改めて、涙がでます。
 父親から当時としては多額の現金を預かっていたと聞きましたが、規制がかかり、また貨幣価値も変わり、農家の人にとっては豪華な和服を重宝がられて、お米や野菜に取り換えて貰ったと聞いていました。普段はひ弱そうな母であったけれど、3人の幼子の為にこんなに逞しく、生活出来たのには親類の人達から色々援助して貰ったから出来たと、よく、話していました。戦争は男だけの戦いではないと、痛感しました。邪気になり、如何に敵と定めた相手の人を大量に殺害するか、犬畜生にも劣る人生を強いられる戦争は、これからも
永久に避けて生きたいと願うばかりです。