胎内被爆者市内見学会

昨日、胎内被爆者の会の人達8名と共に被爆当時のままで保存してある、袋町小学校内平和資料館、旧日銀の建物と地下の金庫、旧大正屋呉服店、追悼平和祈念館などの見学会を会員の山本正敏さんの案内で色々と紹介して頂きました。丁度澄み切った秋空で、平和公園を歩くうちに少し汗ばむ程度の気持ち良い晴天に恵まれた見学会でした。
 袋町小学校は現在新築されていますが、一部被爆当時の状況で保存してあり、当時の8時15分は校庭で朝礼が始まる瞬間でしたが、4人遅刻して、地下にあった下駄箱で履物をはきかえていた3人が奇跡的に助かって3人の内の兄弟の弟が先に地下から飛び出し、校庭で朝礼をして居た全員と一緒に悲惨な最後だったそうです。生と死を目の当たりにした、幼子の心の傷は生涯残ったと思うと、涙ぐんでしまいました。
この校舎は鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物だったようですが、内側の廊下は木製、だから校舎一面火の海になり、地下室に居た3人は奇跡とも言えます。数日後この校舎は被災者の救援場所になり、焼けた壁が黒く変色していたので黒板代わりに、家族の安否を伝言していたそうで、息絶えた人達の声を感じとる大事な遺産の様に思いました。
日銀の地下にあった頑丈な金庫も其の侭無事に保存してありました。建物も鉄筋コンクリート造りだったから、硝子の破片で建物内木製部分の切り傷程度だったようでした。
旧大正屋呉服店も鉄筋コンクリート造りだったから、当時の建物が保存されていましたが、たまたま仕事中に地下室に入っていた男性が1人奇跡的に生き残ったようです。
それから、爆心地だった島病院を見て、当時島先生は芸北に行かれて留守だったそうで、戦後新築されて医療業務を継続されたそうです。戦後偶然にも私の従兄弟がこの島院長に口内に出来た癌の手術をしていただいて、今でも生存しています。平和公園内にある峠三吉の詩碑、被爆アオギリの横の2世アオギリとの共存している姿を見ながら、被爆した親子の象徴のような気持ちになりました。公園内は沢山な観光客の中に外人と行き会う機会がよくありました。
修学旅行生の団体も結構沢山会いました。追悼平和祈念館地下室で私の父親の写真入り死没者名簿に見入り感無量でした。生と死この境目は誰が決めるのかしら?しかし生き残った人も、生き地獄を目の当たりに目撃して、自分だけが生き残ったと言う悔恨の懺悔に重たい荷物を背負った一生涯だったように聞きました。この様な被爆当時の遺産を学生達や海外からの観光客の人達の目に触れたり、耳で聞いた事が核の抑止力に繋がっていけたらと心より祈ります。