フロイドシュモ-ハウス記念館を訪ねて

 昨日の雨降りに変わって朝から青空が覗いています。15時、江波電停で胎内被爆者8名が集合、10分位歩いてシュモーハウスに到着、最近工事が完成したような高速道路の高架近くで、建物自体も改修された、意外とこじんまりして、天井の梁に当時の儘の古木が残って居ました。白く塗り替えられた壁には当時の建築状況の写真や、一緒に協力されたボランティアの人達の写真が貼られて、資料館学芸課から派遣された女性の説明を聞きながら、ふっと先日三村様から借りた本の内容を思い出し、若い彼女の話がより一層身近に理解出来ました。
ヒロシマになぜ> 海外よりのまなざし、『小倉 馨』著
フロイド・シュモー
1895年、米国ワシントン州生。森林学者
敬虔なクエーカー教徒である氏は自ら「償い」「癒される」ためにと被爆4年後の焦土を訪れて、被爆者のために黙々として家を建て、静かに去って行った。1949年の夏4人のアメリカ人が、ジェネラル・ゴードン号でサンフランシスコから横浜に向かっていた。アジア人達に混じって、3等船倉での旅だった。その中の1人がフロイド・シュモー、ワシントン大学森林学の講師で、年齢は54歳、長身痩躯で丸い眼鏡をかけ、如何にもクエーカー教徒らしい柔和な風貌。物静かで誠実。感性ゆたかで、几帳面な人柄が、素直に伝わってくる。他に牧師のエメリー・アンドリウスと黒人の大学講師デイジー・デイブス嬢。赤毛が印象的だった小学校の先生ルース・ジェンキンズ嬢の4人。シュモーさんはララ物資を届ける為に前年にも1度来日している。1945年8月6日広島に人類史上初めての原子爆弾が投下されたと言うニュースをシアトル市の事務所で聞いて、脳裏に「あっ、自分自信に爆弾が落とされた」と言う思いが走った。悲痛な思いだった。この精神的痛手は、自分自信の手でもって、癒さなければならぬ。心の痛手は恐怖に代わったと言う。人間の文明も、遂にここまで堕落してしまったのか、どうして、人間は、こんな残酷な仕打ちが出来るのだろうか。自分たちで,、何故これが防ぎきれなかったのか。彼は自問した。次の瞬間、彼は心の中で叫んでいた。「広島に家を建てよう!」「家を失った被爆者の為に自分のこの手で家を建てよう!」「5人でも10人でも、困っている人の為に家を与えよう!」1日1ドル以上の募金を集め、許可申請の為の手続きを次々と片付けていった。この努力が実って4.300ドル(155万円)の募金と、前記3人の仲間を獲得することが出来た。ニュースを聞いた日から4年後の、1949年7月だった・・・・・
この本の最初の人物紹介だったフロイド シュモー氏はアメリカ合衆国から派遣された人物ではなかったから、終戦直後は日本に個人で来日する事は困難だった。そのため4人の同志達と一緒に山羊を連れて飼育する目的と言って来日した様です。船底に建築に必要な道具や、自分たちの食料、衣類当分の生活必需品と一緒に3等船底から長い航路を終えて横浜港に降りて、列車に乗り換え、そこでも3等車両に乗って広島に着いた様です。広島で21件の家を作り、其の後直ぐに長崎に行き、やはり家を建て、それから、朝鮮戦争で廃墟になった韓国にも1000件以上の家を建てた様です。彼の宗教的精神を越えた人間の良識ある行動で、原爆を落とした国でもある合衆国の人達の人間的好意を象徴した灯でした。